【皇室コラム】「お召し列車」が活躍したころ
【皇室コラム】「その時そこにエピソードが」第21回 「お召し列車」が活躍したころ
「お召し列車」が日本各地を駆け抜けた時代がありました。終戦直後の伊勢神宮参拝、全国巡幸、国体などの地方訪問……。神格化を否定した昭和天皇が国民の中へと入っていった戦後の約10年です。終わりの頃に登場したお召し列車専用の電気機関車が鉄道博物館の展示に加わり、その時代が歴史のひとコマになったことを思います。(日本テレビ客員解説員 井上茂男)
■占領下に「日の丸」を掲げて走った列車
終戦から3か月後の1945(昭和20)年11月12日午前8時。昭和天皇を乗せたお召し列車が、空襲で激しく傷んだ東京駅から三重県の山田駅に向けて発車しました。伊勢神宮(三重県)や神武天皇陵(奈良県)などに戦争の終結を報告する旅。お召し列車の運行は戦後初めてのことでした。
「伊勢神宮に親拝したいがどうだろうか」。昭和天皇が木戸幸一・内大臣に相談したのは1か月前です。『木戸幸一関係文書』(東京大学出版会)にある「手記」によると、内大臣は「誠にごもっとも」と受け止めながら、連合国最高司令官のマッカーサー元帥が許すか、国民の皇室に対する感情がわからない、と判断に迷います。
元帥の意向を尋ねると、「少しも差し支えなく、司令部としては出来るだけの警護をする」という好意的な答えでした。元帥が昭和天皇に会ったのは半月ほど前です。好感を持ち、最大限の理解を示したのでしょう。それはしかし、側近が「今度のように淋しい行幸を拝しようとは思わなかった」(入江相政日記)と書くように、先祖への辛い報告でした。
東京を出発した列車は最初に沼津に停車します。「給水」などで6分間。同行した内大臣は、家を焼かれた人たちの気持ちがどのように表れるか心配し、不穏な言動から投石でも起きたら収拾がつかないと気をもみ続けます。特高警察が解体された直後で、警察力の低下が言われていました。しかし、集まった人たちは至って和やかで、戦前とは違う様子に内大臣は「皇室と国民との隔たりが急にせばまったよう」と喜びました。
列車は、静岡、豊橋、四日市で徐行し、昭和天皇は車窓から焦土と化した街を目のあたりにします。「こんなに焼けたのはどこまで続くのか」。側近の日記(徳川義寛終戦日記)に言葉が残されています。帰りも大垣、岐阜、豊橋、静岡付近で列車を徐行させ、御料車に沿線の愛知や静岡など5県の知事を迎えて話を聞きました。
占領下、「日の丸」の掲揚が禁止されていたころです。ところが、です。東京を出発したお召し列車の先頭には、戦前と変わらず、「日の丸」が十字に掲げられていました。