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元「沖縄新報」許田肇さんが見た「沖縄戦」

2020年8月25日 18:21
元「沖縄新報」許田肇さんが見た「沖縄戦」

去年10月、火災に見舞われた沖縄の首里城。75年前の沖縄戦でも焼失し、再建まで半世紀近くかかったこともあり、去年の火災は沖縄の人々に大きな衝撃を与えた。

その地下に巨大な地下壕(ごう)が存在する。この壕は、沖縄戦で、アメリカ軍と対峙(たいじ)した旧日本軍の第32軍が、一時、司令部を置いた場所で、一帯は激戦で焼け野原となり首里城も焼失した。

戦後は、崩落の危険があることなどから立ち入りが禁止されていましたが、去年10月の首里城火災をきっかけに、戦争の記憶を次世代に伝える場所として壕の保存と公開を求める声がいまあがっている。

75年前、いったい何があったのか。私たちは首里城の沖縄戦を知る方々から数々の証言を伺った。戦争を知らない世代にいま伝えたい、知られざる地下壕に秘められた戦争の歴史とは。

    ◇

許田肇さん、96歳。
沖縄戦がはじまる年の1945年に、最前線で戦況を伝えていた当時の新聞社「沖縄新報」に入社した。
首里城に向かって降り注ぐ砲撃を目の当たりにし、南部への撤退時には、足に被弾。その傷痕はいまも残っている。

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■兵役検査に落第。新聞社へ

許田さんが高校卒業後、新聞社に入社した理由はーー。

【許田肇さん】
徴兵検査を受けたんですけどね、別に病気も何もしてないんだけど、おそらく体重が軽すぎたんじゃ無いかと思うんですよ。だから「第一乙」ということで現役から外れた。そして入隊もできませんでした。

あの時代だから恥ずかしかったですよ。「何を若いのにブラブラしてるんだ!」と。ほかの連中は全部、甲種合格なんですが…その連中も全部戦争で亡くなりました。12名。

それでオヤジの知人の紹介で新聞屋に入りましたよね。新聞社も、事務系で総務関係の事務ですよ。経理もやりましたけどね。経理なんですがね、こっちに(首里に)きたら経理らしい仕事は無かったですよ。

    ◇

■海を埋め尽くす米軍艦隊 それでも「負けると思わず」

「沖縄新報」の記者たちは、軍の取材をするため、首里城の地下にある司令部壕と首里城で1番の高台付近にある「留魂壕」を行き来して記事を書いていた。当時、許田さんは留魂壕で新聞発行の業務にあたっていたという。

許田さんはその時、その高台から、海を埋めつくすアメリカ軍の艦隊を目の当たりにするーー。

【許田肇さん】
艦砲と言っても、あっち(アメリカ軍)の船はそんなに大きくなかったですよ。その代わり、ずらっとアメリカ軍の軍艦がずっと並んでました、海に。総攻撃をしていたんじゃないかと思いますよ。それがどんどんこっちに向かって発射して。首里城の上でしょうな。ずっと上に向かって(撃って)ました。よくそれを見に来ていた。
水くみに行った時、何も無くなっていた。首里にきて日本は少し押されてるんじゃないかと感じはあったんですよね。しかし、日本が絶対負けるという考えはなかったですよ。頑張ってるなということはわかりますが。


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■壕から出ると…首里城がなかった

当時の新聞は戦意高揚のため、事実よりも戦果ばかりを伝えていた。しかし、いよいよ首里から逃げることになった時、壕の外に出た許田さんは戦争の姿を目の当たりにするーー。

【許田肇さん】
確か頭上(壕の真上)だと思う、大きい爆弾じゃなかったかと思いますよ、ドカーンと音がしましてね。そしたら植字っていう新聞の文字を(印刷する)活版。あれがドサーッと落ちてですね。全部入れる場所がきまってるんですよ。活字がたくさんで拾うのが大変だった。もう新聞の発行ができないんですよ。

それからだったと思いますよ。もうそれじゃあもう引き上げようと、退散しようということに。こっちから出るときはもう首里城は全然なかった。全然何も無い。残っているものは何も無かったですよ。丸裸になっていましたよ。


    ◇

■死体転がる中を…南部へそして太ももに弾が…

首里から南部へ。どんどん追い詰めてくる米軍から逃れるため、何か所もの壕を転々とした許田さん。どこに弾が来るかわからず、田んぼや道に死体が転がる中をさまよったーー。

【許田肇さん】
あちこちの壕を飛び歩いているんですよね。4カ所か5か所くらいでしょうね。僕らは壕の入り口の方にいたんです、他にすぐ行けるように。轟壕へも行ったしひめゆり部隊の壕にも2日くらい泊まってました。あの中、広いもんだから。どこの壕か覚えてない。南部ですがね。

そこから大きい道がありましてね、その近くにキビ畑があるんですよ。そのキビをみな「こっち(壕)で食べないように」と。「壕の入り口で食べたらキビが残るから(アメリカ軍に気づかれる)、壕に入る前にあっちで食べてからこっちに回って入ってきなさい」と。中には耳が聞こえない人がいるんですよ。(壕の)目の前で食べてしかられてましたよ。

糸満に行くところじゃないかと思うんですがね、僕の目の前に日本兵がカブトをかぶって歩いてましたよ。艦砲の射撃というのは遠いところからだとゴロゴロ…(飛んでくるが)至近弾だとスッとくるんですよ。至近弾だったと思いますよ…落ちましてね。前の兵隊はアゴを取られましたね。鉄カブトを取って背のう(リュック)を外して歩いていきました。途中で倒れたか、その後はわからない。僕はスコップから(はね返った)弾が太ももに入って骨にくっついた。今でもまだ入ってます。骨にくっついています。だから冬に寒いと痛むんだ。


    ◇

6月中旬、隠れていた壕がアメリカ軍の占領地区となったことで、生き延びることができた。しかし、多くの同級生や同僚は命を落としたーー。


■75年後…再び燃えた首里城 たまらず現場へ

去年10月31日未明、再び炎に包まれた首里城。まだ暗い中、許田さんはいてもたってもいられず車で見に行ったという。今はその再建を願っているーー。


【許田肇さん】
本当にもったいない。あってもらいたいですね。本当の沖縄の象徴ですからね。首里城を再建していただきたいと思っていますよ。歴史も古いし…沖縄の歴史ですよ。


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首里城の再建と共に、保存の声が高まっている「第32軍司令部壕」についてはーー。

【許田肇さん】
ぜひ残してもらいたいですね。司令部が一生懸命やったはずですからね。後(後世)のためには、ぜひ必要じゃないかなと思いますよ。今後のためにも、ぜひ残してもらいたいですね。

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