「死にたい」スノボ事故から復活の岡本圭司 初のパラで表現したいこと
スノーボードクロスでパラリンピック初出場の岡本圭司選手
4日に開幕する北京パラリンピック。パラスノーボードクロス日本代表として、40歳にして初めて出場するのは岡本圭司選手。昨年のワールドカップでは総合優勝を果たしメダル獲得の期待がかかります。
実は岡本選手、2007年に東京ドームで行われたスノーボードの国際大会で日本人最高の5位にもなったトップ選手だったんです。
しかし2015年2月7日。スノーボードの撮影中に崖から滑落し脊髄損傷の大ケガ。当時の事故のことを岡本選手はこう語ります。
岡本選手「(落下した時、意識は)ありました。むっちゃあったんですよ。めっちゃ怖かったんですよ。腰から落ちて頭は冷静なんですけど、立ちあがろうとしても立てない。必死に立とうとしても腰から下の感覚なかったので」
妻の純子さんは、ある一本の電話で事故のことを知ったと言います。
純子さん「一緒に撮影に行っている友達から電話がかかってきて、出たら本人で、すごく混乱していて『純ちゃんごめん、ごめん』とひたすら謝っていました」
岡本選手「死にたいしか思えなくて。終わったな、終わってしまった」
そんな失意のどん底にいた岡本選手を勇気づけた人がいました。ソチ五輪にも出場し、岡本選手が弟のように可愛がっていたプロスノーボーダーの角野友基選手です。
大ケガをしたことを角野選手に伝えた岡本選手。すると角野選手からはこんな言葉が返ってきたと言います。
岡本選手「『来週Air+Styleがあるから、絶対優勝するから、優勝したら足動くと思ってくれ』みたいなことを言ってて」
Air+Styleとは、世界最高峰のスノーボード・ビッグエアの大会。事故から2週間後。世界のトップライダーたちも参戦したこの大会で角野選手は世界初の大技を成功させ、見事優勝を果たしました。岡本選手との約束を守ったのです。
実は角野選手のボードには手書きでこう書かれていました。「RideforKEIJI」=「ケイジのために滑る」
岡本選手「口で言うことは簡単だけど、言ったことを実現しちゃう人間の力っていうのはあるんだなと思った。頑張る理由のひとつにはなりましたね」
"自分も再び雪の上に立ちたい"勇気をもらった岡本選手は必死のリハビリを続けました。左足の機能はほぼ回復しましたが、右足のヒザから下には今もマヒが残っています。
岡本選手「全然足の太さが違う。右足は全然力が入らないですね」タオルを右足に引っ掛け、動かす動作を見せてくれた岡本選手。「これが(右足が)動いてるっていうのを自分の脳で思い込ませる練習で、1日1000回とかするんですよね」
そして、事故から1年後。ついに雪上に岡本選手が帰ってきました。ゆっくりと滑り降りた先に待っていたのは、仲間たちの祝福。
岡本選手「あんまり滑れなかったです。ハハハ。むしろなんとかして滑り降りたぐらいの感じです。でもそんな関係なくスノーボード履いて雪の上に立ったっていうことが感動がすごかったですね。最高でした。雪は、最高です。戻ってこれたなって感じがしました」
そして岡本選手の情熱に再び火をつけたのは、平昌パラリンピックから正式種目となったパラスノーボードクロスとの出会い。さまざまな障害物のあるコースを滑り切る速さを競う競技です。
2018年、初めて大会に出場した岡本選手は初戦から敗戦。しかし直後に口にしたのは「最高!負けた?面白い!」
岡本選手「みんな障がい者だから大したことないやろって思って、サラッと勝ってこんなもんかって言いたかったんですけど、全敗してしまって。火がついた」
妻・純子さん「スノーボードクロスに出会った時は全敗して負けて帰ってきたのにすごい楽しそうで。ケガをする前の彼みたいな感じで、その時は私もすごくうれしくて」
岡本選手「スノーボードを通して、自分が成長していくっていうことをまたできてるやんって思った時に、すげえ面白くなってきて。スノーボードクロスやってなかったんで、ゼロやったんです。それが1になって2になってちょっとずつ早くなっていくなかで、気がついた時に『あ、前やってたことと一緒やん』って思って、ということは『ライフワークや』ってなったんですよ」
スノーボードと関わって生きていくことが自分のライフワーク。そう気付いた岡本選手が大事にしている言葉は。
岡本選手「バイブス!ノリとかテンションとかじゃなくて、人に対する良い影響ということの総称で使ってるんですけど、スノーボード自体の楽しさであったり、仲間で一つのことを目指しているっていう楽しさであったりバイブスを共有することで本当に最高の経験ができる」
今では、長野県・白馬のゲレンデでカフェも経営。これも、スノーボードの楽しさを共有するため。
そんな岡本選手が初のパラリンピックの舞台で表現したいことは。
岡本選手「パラリンピックという舞台があるのは人生の人としての可能性があると思う。僕みたいな40のおっさんで、年取ってて、足も動かなくて、そんな人間が、ああいう舞台でみんなに見てもらえるのっていうのが本当に可能性だと思うんです。スノーボードやってる人っていうのは自由でなんかかっこいい人が多いんだなって思ってもらえるような滑りになればいいなとは思ってます」
実は岡本選手、2007年に東京ドームで行われたスノーボードの国際大会で日本人最高の5位にもなったトップ選手だったんです。
しかし2015年2月7日。スノーボードの撮影中に崖から滑落し脊髄損傷の大ケガ。当時の事故のことを岡本選手はこう語ります。
岡本選手「(落下した時、意識は)ありました。むっちゃあったんですよ。めっちゃ怖かったんですよ。腰から落ちて頭は冷静なんですけど、立ちあがろうとしても立てない。必死に立とうとしても腰から下の感覚なかったので」
妻の純子さんは、ある一本の電話で事故のことを知ったと言います。
純子さん「一緒に撮影に行っている友達から電話がかかってきて、出たら本人で、すごく混乱していて『純ちゃんごめん、ごめん』とひたすら謝っていました」
岡本選手「死にたいしか思えなくて。終わったな、終わってしまった」
そんな失意のどん底にいた岡本選手を勇気づけた人がいました。ソチ五輪にも出場し、岡本選手が弟のように可愛がっていたプロスノーボーダーの角野友基選手です。
大ケガをしたことを角野選手に伝えた岡本選手。すると角野選手からはこんな言葉が返ってきたと言います。
岡本選手「『来週Air+Styleがあるから、絶対優勝するから、優勝したら足動くと思ってくれ』みたいなことを言ってて」
Air+Styleとは、世界最高峰のスノーボード・ビッグエアの大会。事故から2週間後。世界のトップライダーたちも参戦したこの大会で角野選手は世界初の大技を成功させ、見事優勝を果たしました。岡本選手との約束を守ったのです。
実は角野選手のボードには手書きでこう書かれていました。「RideforKEIJI」=「ケイジのために滑る」
岡本選手「口で言うことは簡単だけど、言ったことを実現しちゃう人間の力っていうのはあるんだなと思った。頑張る理由のひとつにはなりましたね」
"自分も再び雪の上に立ちたい"勇気をもらった岡本選手は必死のリハビリを続けました。左足の機能はほぼ回復しましたが、右足のヒザから下には今もマヒが残っています。
岡本選手「全然足の太さが違う。右足は全然力が入らないですね」タオルを右足に引っ掛け、動かす動作を見せてくれた岡本選手。「これが(右足が)動いてるっていうのを自分の脳で思い込ませる練習で、1日1000回とかするんですよね」
そして、事故から1年後。ついに雪上に岡本選手が帰ってきました。ゆっくりと滑り降りた先に待っていたのは、仲間たちの祝福。
岡本選手「あんまり滑れなかったです。ハハハ。むしろなんとかして滑り降りたぐらいの感じです。でもそんな関係なくスノーボード履いて雪の上に立ったっていうことが感動がすごかったですね。最高でした。雪は、最高です。戻ってこれたなって感じがしました」
そして岡本選手の情熱に再び火をつけたのは、平昌パラリンピックから正式種目となったパラスノーボードクロスとの出会い。さまざまな障害物のあるコースを滑り切る速さを競う競技です。
2018年、初めて大会に出場した岡本選手は初戦から敗戦。しかし直後に口にしたのは「最高!負けた?面白い!」
岡本選手「みんな障がい者だから大したことないやろって思って、サラッと勝ってこんなもんかって言いたかったんですけど、全敗してしまって。火がついた」
妻・純子さん「スノーボードクロスに出会った時は全敗して負けて帰ってきたのにすごい楽しそうで。ケガをする前の彼みたいな感じで、その時は私もすごくうれしくて」
岡本選手「スノーボードを通して、自分が成長していくっていうことをまたできてるやんって思った時に、すげえ面白くなってきて。スノーボードクロスやってなかったんで、ゼロやったんです。それが1になって2になってちょっとずつ早くなっていくなかで、気がついた時に『あ、前やってたことと一緒やん』って思って、ということは『ライフワークや』ってなったんですよ」
スノーボードと関わって生きていくことが自分のライフワーク。そう気付いた岡本選手が大事にしている言葉は。
岡本選手「バイブス!ノリとかテンションとかじゃなくて、人に対する良い影響ということの総称で使ってるんですけど、スノーボード自体の楽しさであったり、仲間で一つのことを目指しているっていう楽しさであったりバイブスを共有することで本当に最高の経験ができる」
今では、長野県・白馬のゲレンデでカフェも経営。これも、スノーボードの楽しさを共有するため。
そんな岡本選手が初のパラリンピックの舞台で表現したいことは。
岡本選手「パラリンピックという舞台があるのは人生の人としての可能性があると思う。僕みたいな40のおっさんで、年取ってて、足も動かなくて、そんな人間が、ああいう舞台でみんなに見てもらえるのっていうのが本当に可能性だと思うんです。スノーボードやってる人っていうのは自由でなんかかっこいい人が多いんだなって思ってもらえるような滑りになればいいなとは思ってます」