【箱根駅伝】駒澤大学・大八木弘明監督 走れなかった学生ラストイヤー「激励しながら自分も走りたいという気持ち」当時を振り返る
夢を追って市役所就職後に大学入学へ
高校卒業後は川崎市役所に就職した大八木さん。憧れの箱根駅伝への思いを断ち切れず24歳で駒澤大学の夜間コースに入学します。「高校時代それほど走れなかったが、就職後走る力が付いてきた。ある程度の年齢に来て、自分でこれくらいだったら大学でもやれるという自信があったからいけたと思う」と振り返る大八木さん。周囲より少し年齢を重ねての大学入学となりました。
その後、大八木さんは1984年の第60回大会で5区を走り区間1位。第61回大会では「花の2区」を走り区間5位。そして27歳になった第62回大会では再び「花の2区」を走りました。「自分が頑張ればなんとか出来るんじゃないかってこともあり、なんとか区間を取るということが一番でした」と話す大八木さん。日体大の鈴木尚人選手とデッドヒートを繰り広げた末、最後は 1 時間 10 分 0 秒の記録で2区区間賞を獲得しました。
立ちはだかった年齢制限の壁
しかし翌年、箱根路で大八木さんのユニフォーム姿は見られませんでした。24歳で入学した大八木さんは、4年生になると28歳に。年齢制限のため箱根駅伝に出場できなかったのです。選手の後ろを走る車から声援を送ることしか出来なかった箱根ラストイヤー。「もう走れないので後輩のために応援しようという感じでジープに乗っていました。複雑な気持ちはありました。激励しながら自分も走りたいという気持ちは出てきますね...自然と」と当時の気持ちを振り返りました。
その一方で「やろうという気持ちですかね。そういう意志もあると思いますね。それがなければ、この年齢まで走ってないと思いますし、その気持ちが一番大事ではないでしょうか」とも付け加えた大八木さん。現在は、監督として母校・駒澤大学を支えています。